静かな時の層を踏み抜いて
1.うっかり時間旅行:謎の「昭和ワープ現象」に巻き込まれる
1-1.発生の経緯
2025年4月17日午前7時32分、カオシドロ(48歳・方向音痴歴45年)は、普段通り自宅から最寄りのバス停へ向かう途中、足元に発生した「時層ゆるみ帯(じそうゆるみたい)」に誤って踏み込み、意識を失った。
この現象は、数十年に数件だけ報告される稀少事例「自然発生型時間ずれ(NTZ)」に該当すると推定されている。
目覚めたとき、彼は見知らぬ商店街の片隅に倒れていた。
周囲には、どこか懐かしい匂い──油で揚げた何かと、よくわからない消毒液の混じったような空気──が漂っていた。
1-2.環境の特徴
後の調査によれば、カオシドロが転移したのは「標準昭和48年型生活圏」に類似する領域だった。
- 道路はアスファルトだが、ところどころ穴が空いている
- 電柱が異様に多く、地上配線が蜘蛛の巣のように張り巡らされている
- 空には、朝からなぜか爆竹の音がしていた(理由は不明)
また、すれ違う人々は皆、似たような服を着ており、手には新聞や意味のわからない買い物袋を持っていた。誰もスマホを見ていないどころか、空を眺めながら歩く者すら存在しなかった。
1-3.最初に起きたこと
立ち上がろうとしたカオシドロは、足元に落ちていた缶のようなものを蹴飛ばした。
缶には「ウルトラすっきりミント」とだけ書かれており、メーカー名も原材料も不明だった。
蹴った瞬間、遠くの交差点にいたハトの群れが、音もなく一斉に飛び立った。
カオシドロはこの時、はじめて本格的な違和感を覚えたという。
曰く、
「あれ、これって夢じゃなさそうだな」
この認識は、後に彼の適応困難と迷走行動に拍車をかけることとなった。
また、彼の持ち物にも異常が発生していた。
- 持っていたはずの電子端末は、真っ黒な板と化して反応しない
- 財布にあった電子マネーカードは、妙な銀色の紙片に変わっていた
- ポケットの中のペンは、絶えず小刻みに震えていた(止めようとしても止まらなかった)
これらの現象は、当該時代における「情報圧縮現象(ISC)」の影響と見られる。
1-4.カオシドロの初期対応
カオシドロは、状況を正確に理解しないまま、「とりあえず動けば何とかなるだろう」と判断し、歩き出した。
この判断は、後に専門家たちから「最も非推奨な初期行動例」として報告書に記載されることになる。
彼は、まず最寄りのバス停を探したが、そこに立っていたのは「汽車」と書かれた木の案内板だけだった。
どう見ても鉄道の気配はない。
また、周囲の人々は、カオシドロが手にしている黒い板(かつてのスマホ)を見ると、微妙に距離を取って歩き始めた。
このことから、カオシドロは早くも、「自分はこの世界で、ちょっと変な存在なのかもしれない」と気づき始めたと推測されている。
以上の観察結果から、自然発生型時間ずれ(NTZ)は、極めて突発的であり、対象者の判断能力を著しく低下させることが明らかとなった。
また、持ち物の変質、現地生物の異様な反応、微妙な空気感などは、昭和型空間特有の「同期拒絶現象(RSR)」と呼ばれる初期障害に起因すると考えられる。
カオシドロは、まだこの段階では「そのうち元に戻るだろう」と楽観的に構えていた。
だが、物事はこの後、予想以上にめんどうな方向へと転がっていくのであった。
2.最初の戸惑い:スマホもない、情報も来ない
2-1.観察される情報空白
カオシドロが最初に直面したのは、「情報が手に入らない」という極めて基本的な壁であった。
現代における情報取得は、平均して1.3秒以内に完了する(※自社調べ)が、転移先ではこの平均値が体感で数時間にまで引き伸ばされていた。
最寄りの店舗らしき建物に入ってみると、そこには紙に印刷された「販売品目一覧」が貼られていた。
電子ディスプレイは存在せず、情報更新には鉛筆が使われていた。誰がどう見ても非効率であるが、店員たちはそれを「普通」として運用していた。カオシドロはここで最初の混乱状態「初期適応のための思考停止(ISL:Initial Suspension Logic)」に陥ったと記録されている。
2-2.情報端末の不在
手元の黒い板(かつてスマート端末だったもの)は、依然として機能せず、ただの無表情な物体と化していた。
カオシドロは何度か指でなぞってみたが、画面は沈黙したままだった。まるでこの世界では、情報という概念そのものが「物理的距離」に比例して遠ざかるかのようであった。
試しに通りすがりの人間に「ここはどこか」と尋ねてみたが、「あんた、何を言ってんだ」という表情で返された。言語体系自体は同じはずだが、意味の流れが微妙にかみ合わない。
2-3.試行錯誤と失敗
混乱の中、カオシドロは「とにかく公的な施設を探せば何かわかるだろう」と考えた。
しかし、目に入る看板の多くは、「〜組合」「〜会」「〜堂」など、目的の定義がぼやけたものばかりで、行政的なものは見当たらなかった。最終的に彼は「市民共栄センター」と書かれた建物に入るが、そこでは老人が黙々と畳を拭いており、案内所は存在しなかった。
ここでカオシドロは、再び思考の迷路に陥る。
「自分はこの世界にとって、まだ“存在していない”のではないか」
2-4.紙の文明との遭遇
ようやく手に入れた紙の新聞(価格:20単位円)は、読もうとした瞬間に突風で飛ばされた。拾おうとして走った先で、カオシドロは足をひねり、その場にうずくまった。
情報が得られないだけでなく、「情報に触れようとするほど肉体が不具合を起こす」構造が存在するかのようだった。
この段階で、彼は以下のような行動を試みたが、すべて不発に終わっている:
- 電話ボックスを見つけて番号を押す → 相手不明の呼び出し音が永遠に鳴り続ける
- 駅の掲示板を見る → 全ての時刻が「未定」とだけ書かれている
- 地元の若者に話しかける → 話し始めた瞬間、相手が咳払いして走り去る
なお、第三の事象については、衣類の色彩(紫+緑の縦縞)に原因があった可能性が指摘されている。
2-5.情報と存在の不整合
この時点でのカオシドロは、「自分が知っている世界」と「いま立っている場所」の間に、深くて妙にぬるい溝があることに気づき始めた。
彼はまだ帰る方法を探していたが、帰るにはまず「ここがどこなのか」を知らねばならず、それを知るには「ここにいていい存在だ」と証明しなければならない。
だが、どうやらこの世界は、そのような証明を誰にも求めてはいないようだった。
つまり、カオシドロは情報を失ったのではない。
情報という概念そのものが、この世界では“空気のように不必要”になっていたのである。
そして、この違和感の本質が何なのかを探ることが、彼の次の課題となっていく。
3.文化ギャップにぶつかる:見慣れぬルール、懐かしくも異質な空気
3-1.はじめての社会接触
「ここがどこなのか」を確かめようとしていたカオシドロにとって、最初の「社会との接触」は、公園のベンチだった。
それはただのベンチだったが、妙にみっしりとした存在感があり、隣には紙袋に何かを詰めた中年男性が座っていた。男はパンのような物体を手に取り、何かを待つように空を見上げていた。
10秒後、大量のハトが飛来する。
男はパンを空中に投げた。ハトはキャッチした。そして何事もなかったかのように、再び沈黙が訪れた。
「何かを与えても、それについて語らない」
この短い儀式の中に、この世界の根本的な社会構造が表れていたのかもしれない。
3-2.交通ルールの謎
交差点にさしかかると、明らかに信号機ではない何かが道の向こうに設置されていた。
赤・青・黄のランプはあるが、どれも一切点灯しておらず、代わりに中央に「押すな」と書かれた謎のボタンが付いていた。カオシドロがじっと見つめていると、対岸の老人が無言で手を挙げて横断を始めた。
すると、周囲の車はスムーズに停止し、誰もクラクションを鳴らさなかった。
「信号機は止めない。人が止める」
この非合理的合理が、この世界ではちゃんと機能していた。
彼は試しに手を挙げてみた。驚いたことに、車は再び止まり、通行が許可された。
だが、この挙手行為には後で「目立ちすぎる危険動作」として地元防犯班から軽く注意を受けることになる。
3-3.飲食における制度の謎
昼食を取ろうと、カオシドロは「食事処(しょくじどころ)」とだけ書かれた簡素な店に入った。
壁に貼られた手書きメニューには、以下のような項目が並んでいた:
- 麺(太)
- 麺(細)
- ごはん(白)
- 水
この4つのみである。しかも、隣席の客は「麺(太)→ごはん(白)→水→麺(細)」という順番で注文していた。これがコース料理なのか、ただのループなのか、誰も説明しない。
料理は素朴だったが、どこかしら「何かを誤魔化していない」味がした。
カオシドロはその感覚に戸惑い、少し安心した。
3-4.曖昧な公共と明確な私語
驚いたのは、街のあちこちに「清掃実施中」と書かれた標識が立っているにもかかわらず、誰一人として清掃作業をしていなかった点である。
だが、15分後、突然どこからともなく数名の人物が現れ、ほうきとちりとりで3分間だけ掃除し、また消えた。その間、誰も喋らず、互いに目も合わせず、それでも動きに無駄はなかった。
このことから、当該時代における公共意識は「共有するが関与しない」という独特のモデルを持っていたと推定される。
一方、私的空間では逆に言語が活性化する傾向があった。
民家の前を通ると、家の中からはっきりとした会話の断片──「昨日のアレさ、やっぱりカメだったらしいよ」など──が漏れ聞こえてきた。
情報は公に発信されないが、私の空間にはためらいなく放たれている。
この反転構造により、カオシドロの感覚はさらに混線していった。
3-5.記号と感覚のズレ
この章を通して明らかになったのは、当該時代の文化体系が「わかりやすくすることを目的としていない」という事実である。
どのルールも手続きも、それ自体の正当性ではなく、「続けられていること」だけに価値があるように見えた。
つまりここでは、意味の理解ではなく、参加の持続が重要とされるのだ。
カオシドロはまだこの時点で、それが恐ろしいほど快適な罠であることに気づいていなかった。
4.葛藤の日々:時代に馴染むか、抗うか
4-1.静かな同調
時間の感覚がぼやけ始めたのは、転移から3日目とされる。
カオシドロは、はっきりとした日時や曜日の区別がこの世界では「参考情報」程度にしか扱われていないことに気づき、体内時計を失調したまま惰性的に日常へと組み込まれていった。
目覚まし時計は存在せず、代わりに近所の建物から毎朝7時23分に聞こえる謎の太鼓音が、生活のリズムを形成していた。
カオシドロは次第に、時計を見るのではなく「音に応じて動く」ようになっていった。
それは本人の意思による順応ではなく、むしろ「音が彼の背中を押す」ような感覚であったと本人は後に述べている。
4-2.なじむということ
最初の週末、カオシドロは誘われるようにして「町内整列式」と呼ばれる半強制的な行事に参加した。
内容は至って単純で、住民たちが順番に前にならえをしながら広場を三周するというものだった。
この行事の目的は不明だが、最後に全員で「ありがとうございました」と言って解散することで完結する。
不思議なことに、誰一人として疑問を口にしない。むしろ顔には、うっすらとした達成感のようなものがにじんでいた。
カオシドロ自身も、その日だけは「妙に清々しい気分だった」と語っている。
なじむとは、疑問を感じなくなることではなく、疑問を口に出すのが億劫になることである。
その境界線に、彼は静かに足を踏み入れていた。
4-3.違和感の残滓
しかし、すべてを受け入れられるわけではなかった。
特に、近隣の職場構造──いわゆる「日替わり割り当て制」──には、激しい不条理を感じた。
月曜は郵便局員、火曜は町の図書監視員、水曜は水撒き係。
それぞれが決まった制服を着て、別人のように振る舞うことが求められていた。
本人の適性や希望は一切反映されない。必要なのは「今日の役割を演じ切ること」であった。
カオシドロはここで、初めて本格的な内部抗争に苦しむことになる。
眉間に違和感が生じ、思考がやたらと直線的になるという症状で、発作時には「全部嫌だ」しか言えなくなる。
それでも翌日には、「何となく参加」していた。
4-4.他人との距離感
この世界では、個々の関係性がとても曖昧だった。
名前を名乗る文化はあるが、あまり使われない。挨拶はするが、返答は曖昧。誰かと目が合えば、それだけで「わかっている」という前提が成立する。
ある日、カオシドロは「毎朝同じ時間に前を通る無表情な女性」と、互いに一度も言葉を交わさないまま、3日目に「野菜を一つ手渡される」という交流を経験した。
この出来事は、本人の記憶の中で「もっとも説明しづらいが納得できたこと」として残されている。
交流とは、情報ではなく周期性と反復で成立するのだと、カオシドロは学び始めていた。
4-5.なじみながら削れる
カオシドロは、この世界に「抗っているつもり」でいた。
だがその実、彼の中では徐々に「これはこれでいいのかもしれない」という感覚が育っていた。
何もかもが決まっているようで、誰も何も説明しない。
選べるようで、実はどれも同じ。言葉があるのに、使わない。
この不思議な時代は、彼の思考をまるごと一度、研磨して平らにしていくようだった。
彼は、なじむか、戻るかの選択を迫られているわけではない。
選択肢がそもそも存在していないという事実に、まだ気づいていなかっただけなのだ。
5.帰れないかもしれない恐怖:昭和になじみすぎる心
5-1.時間の形が変わる
転移から数週間が経過したある朝、カオシドロは「今日は何曜日か」が分からなくなっていることに気づいた。
それは脳の異常ではなく、むしろ世界側の構造が「曜日という概念を重視しない」方向へ傾いているためだった。
街の掲示板には「本日:いつもの日」と書かれており、住民もそれに特段の違和感を抱いていない様子だった。
これにより、時間が「流れるもの」ではなく「揺れるもの」として体感されるようになった。
カオシドロは、昨日と今日の違いを思い出すことに失敗し始め、代わりに「最近」「さっき」「ついさっき」などの概念でスケジュールを立てるようになっていた。
5-2.変わっていく身体感覚
食事は粗末だがなぜか栄養が偏らず、睡眠は浅いのに常に体が軽く、誰とも深く話さないのに孤独を感じない。
これらの要素が結合し、カオシドロの内部では「現代への帰還」という目的が、徐々に形を失っていった。
ある日のこと、彼は気づかぬうちに「例の行進式」に参加していた。整列して歩き、指示に従い、終わったあとに拍手をしていた。
誰かに頼まれたわけでも、参加表明をしたわけでもない。ただその場にいて、流れに乗って動いただけである。
「私はもうこの場の部品になってしまったのか?」
そう疑問が浮かんだが、それすらも一過性の雑念として霧散していった。
5-3.思い出との摩擦
この世界に来る前の記憶が、徐々に「記録」ではなく「夢」として再構成され始める。
たとえば、ガラスの板に触れれば全世界の情報が出てきたこと、レジが自動で会計してくれたこと、気分によって仕事が在宅になったこと──
どれも、「たしかにそうだったはずなのに、今では説明が難しい」と感じられるようになっていた。
記憶というものは、周囲とあまりに断絶していると、現実の根拠を失う。
そのプロセスをカオシドロは日々体感していた。
5-4.帰還意欲の希薄化
問題は、彼が帰りたくないと思ったわけではなかった、という点にある。
むしろ「帰るという選択肢」が、ある日ふと、頭から抜けてしまっていたのである。
誰かに奪われたわけでも、禁じられたわけでもない。ただ、そういう道が存在していたことを、数時間ほど忘れていた。
記録によると、彼がふとベンチに座ったとき、ポケットにあった電子マネーカードの代替物(ただの銀紙)を指でなぞりながら、こう呟いたという。
「……このまま、でも、いいのかもしれないな」
風が吹き、紙屑が舞い上がり、空にはやたらと輪郭のはっきりした雲が浮かんでいた。
5-5.仮住まいから仮永住へ
この章では、「馴染む」ことが「戻らない」ことと紙一重である、という事実が浮き彫りとなった。
昭和型環境は、表面上は質素で不便であるが、反面「選ばなくても済む」構造に満ちている。
意思決定の手間が減り、挨拶は形式的で、孤独は社会的に等分化されている。
その快適さは緩慢で、だが確実に「戻る」という意志を摩耗させていく。
カオシドロは、昭和という空間に馴染みすぎていた。
もう“帰り方を探していない”ことにすら、自覚が追いつかなくなりつつあった。
6.心の中の会議:今の自分と、昭和の自分がもめ始める
6-1.意識の分岐
ある日、カオシドロは目を覚ましたとき、自分の中に**二つの「自分」**が存在しているような感覚に襲われた。
一方は、情報の海で泳いできた現代の自分。
もう一方は、乾いた空気と紙の匂いを吸い込んで生きる、この場所用の自分である。
この二者は、明確に分かれていた。話し合うことはない。
ただ、行動のたびに意見が噛み合わず、彼の内側で「同じ人間が二人いるのに、どちらもリモコンを持っていない」状態が始まった。
これがいわゆる**認知的自己二重化(CDS)**の初期症状である。
発症すると、思考が「Yes」でも「No」でもなく、「まあ……」に固定されるという副作用が確認されている。
6-2.記憶の継ぎ目が崩れる
この頃から、カオシドロの中で記憶の並び順が微妙におかしくなってきた。
たとえば、「昨日見た猫の動き」と「十年前に参加したセミナー」が同じ文脈でつながる。
あるいは、「今朝食べたゆで卵」と「昭和の自販機で見かけた金属製のカップ」が同じ記憶ファイルに保存される。
つまり記憶は正常に存在するが、「どの棚に入っていたか」が毎日変わる。結果、記憶が「実体」ではなく「気配」になっていく。
カオシドロは日記をつけようとしたが、書いた瞬間に内容が他人事のように感じられ、翌日にはそのノート自体を「これは誰のものだ?」と思ったことが記録されている。
6-3.「大切なもの」をめぐる衝突
内なる二人の自分──仮にドロA(現代型)とドロB(昭和型)と呼ぶ──は、ある日の夕暮れ時に精神内で接触した。
ドロA:「このままここにいて、何になる?」
ドロB:「何かにならなくても、よくないか?」
ドロA:「じゃあ、あのお金は?あの折れたカードは?」
ドロB:「重さはあった。でも意味はなかっただろ?」
このような会話は表面化せず、代わりに彼の行動が断続的にバグを起こし始めた。
- ドアを開けるつもりで壁をノックする
- 人に話しかけると、声ではなく笑顔が先に出る
- 道に迷っていないのに、迷っているように歩く
それはまるで、自分の意思をなぞることと、自分であることがズレ始めたような感覚だった。
6-4.思考の交錯と「老人の幻影」
精神的圧縮が限界に達したとき、カオシドロは視界の端に「氷を配って歩く老人」を見るようになった。
その老人は、何も言わず、ただ手押し車に冷たいものを載せ、ゆっくりと同じ通りを往復していた。
彼に近づこうとすると、その姿はふっと消える。
だが翌日も、翌週も、似たような時間に現れる。
ひとつ確かなのは、カオシドロが老人に会った記憶を持つ一方で、「実際に会った」という確信を持てなかったという点である。
老人は言葉を発さない。だが彼が通り過ぎたあとの空気は、いつも少し涼しかった。
6-5.誰が「自分」を選ぶのか
この章で明らかになるのは、馴染みすぎた世界においては、「今の自分」と「昔の自分」が対話するよりも、溶け合ってしまうことのほうが早いという事実である。
現代を知っているはずのカオシドロが、過去に最適化された生活様式を自然に取り入れ始める一方で、かつての価値観を「ただの飾り」として棚上げしはじめている。
つまり、彼の中で「大切なものを思い出す」という行為そのものが、もはや機能不全に陥っていた。
自分を選ぶのは、自分ではない。
少なくともこの世界では、「流れ」こそが人格を決めるのだということを、彼の精神は徐々に受け入れ始めていた。
7.奇跡の帰還:偶然か、必然か、現代に戻る
7-1.異音の発端
それは、何の前触れもなく始まった。
いつものように何でもない風景の中、カオシドロは商店街の裏手にある小さな廃屋の前で足を止めた。
朽ちた壁には「使用中止」とだけ書かれた張り紙があり、その足元に、ひとつの物体が落ちていた。
それは、かつての彼がこの世界に来る以前に所持していたものによく似ていた──細長く、角が欠け、何かを聞くための道具のような……。
拾い上げた瞬間、その物体から**「ジジジ……」という音**が発生した。
ただの雑音のようでもあり、意味のある音のようでもあり、言葉ではないが、何かが「来ている」ことだけははっきりわかる音だった。
この音は、本人の脳内定位により「耳元で鳴っている」と感じられたが、近くにいた通行人たちには一切聞こえていなかった。
これは、音声による単方向的な時空通知──**限定的共鳴合図(LRS:Localized Resonant Signal)**と推定される。
7-2.周囲の世界の変調
音が始まってから数分後、世界の解像度が微妙に変化し始めた。
- 空の雲が、やたらと輪郭を強調しながら動く
- 遠くのビルの窓が一斉に反射をやめる
- 飛んでいた生物群が、空中で一度静止する
それはまるで、何かの「収束処理」が始まったかのようだった。
本人が立っている地点に、見えないカーソルが当たっているような、妙な居心地の悪さがあった。
カオシドロは、無意識にポケットを探り、例の銀紙(電子マネーカードだった何か)を取り出した。
するとその表面に、見たことのない記号列が浮かび上がっていた。
→ ☐−−−−△○⊖⊖−
これは、彼がかつて住んでいた世界では「帰還プロトコル開始シンボル」として認識されるタイプのマークだったが、彼自身はその意味をもはや理解していなかった。
ただ、それを「懐かしい」と感じた。それだけだった。
7-3.非手続型帰還プロセス
帰還は、申請でも操作でもなく、状態の飽和として発生した。
物体を持ち上げ、空を見上げた瞬間、すべての音が吸い込まれるように消えた。
代わりに耳の奥から、自分の名を呼ぶような「聞いたことがない声」が響いた。
声はひとつではなく、複数で、性別も年齢も不定。だが内容はどれも同じだった。
「おかえりのタイミングです」
気づけば彼の足元が柔らかくなり、地面が沈んでいくような感覚があった。視界の端には、回転する灰色の枠が現れ、空気に含まれる粒子の密度が上下し始めた。
7-4.帰還後の現象
カオシドロは、次に目を覚ましたとき、2025年の自室のソファに座っていた。
TVは消えており、端末は机の上にある。特に異常はないように見える。
ただひとつだけ、ポケットに異変があった。
中には、使用方法不明の貨幣が一枚──表面には「いつもの日」と刻印されていた。
これは、あの世界で最後に見た張り紙と一致しており、持ち帰った唯一の物理証拠となった。
さらに、電子マネーの残高画面には「計測不能な記憶」とだけ表示され、数値は表示されなかった。
7-5.帰還は本当に起こったのか?
この章で報告された一連の現象は、「帰還」という表現を用いるには曖昧な点が多い。
実際、彼が戻ってきたのはどの現代だったのか、完全に一致する証拠は確認されていない。
言語、室温、家具の並び、記憶……どれも「似ている」が、「完全ではない」。
つまり、彼は戻ってきたのではなく、“新しく同じ場所に着いた”可能性がある。
この帰還は偶然なのか、あるいは昭和空間そのものが「滞在限度」に達したからなのか、判定不能である。
ただ、カオシドロの瞳に映る日常には、もうほんの少しだけ「古びた空気」が混じっているようだった。
8.結論:昭和はどこへ行ったのか、そして私たちは
8-1.あれは幻だったのか?
カオシドロが経験した昭和型空間──正式名称も定義も未確定のその世界は、今となっては記録にも痕跡にも残っていない。
彼の所持していた貨幣は、現代の貨幣として使用不能であり、刻印の文字「いつもの日」は鑑定士によって「加工痕のない未登録文字」と判定された。
記憶に関しても不確定要素が多い。
彼が「確かにそこにいた」と主張する一方で、彼の身の回りにいる人々は、彼がいなかったことにも、いたことにも違和感を示さなかった。
この曖昧さこそが、現代と昭和を隔てる最大の違いであるとされている。
昭和は、明確な入り口も出口も持たない。
ただ、ふとした拍子に誰かがそこに触れ、そして少しだけ何かを持ち帰る。
その「何か」が何なのかは、言葉にできないし、説明もできない。だが確かに、感じたことはあった。
8-2.ノスタルジーの非対称性
分析によれば、昭和型空間は「懐かしい」と「正体不明」の中間に位置する感覚をベースとして構成されていた。
つまり、それはかつて体験したことがあるようでいて、決して「本当にあった過去」ではない。
このズレが、懐古的時空体験(RET:Retroactive Experience of Time)の本質的な構造である。
ノスタルジーとは、記憶をなぞることではない。
それは、「記憶を持っていないのに懐かしい」と感じる構造的錯視にすぎない。
そしてこの錯視は、過剰な情報環境の中で、人間が自我の輪郭を維持するために生成する、精神的な反射行為であると仮定されている。
昭和とは、時間そのものではなく、理解できない安心感の仮装である。
8-3.現代社会との非整合性
カオシドロが帰還後に報告した違和感は、次のようなものだった。
- 人の話し声が全部「意味を持ちすぎる」
- 情報が早すぎて、「気持ちが追いつく前に行動してしまう」
- すべてが「何かのため」で、何も「いまのため」ではない
昭和型空間では、意味はあったが目的は曖昧だった。
現代型空間では、目的は明確だが意味がこぼれている。
この相反する構造の中で、カオシドロの感覚は不安定なまま再適応を始めた。
そして、彼のように「過去に触れた者」は、現代社会においてわずかな速度のズレを抱えたまま生きていくことになる。
彼の行動ログによれば、帰還後の朝、彼は信号のない交差点で自然に手を挙げて横断していたという。
8-4.非連続型幸福追求モデル(NDHモデル)の提唱
現代社会は「連続的な成功」「効率化」「正確な定義」によって構築されてきた。
だが、昭和型空間が示したのは、それとは異なる幸福の輪郭である。
それは、
- 説明がつかないことを「説明しないでおく」余地
- 無意味な行動に「意味をあとから感じる」自由
- 不便さに「他人と同時に立ち尽くす」ことの安心
こうした非連続な幸福感は、論理的な設計では再現できない。
むしろ、「設計されていない空間」がもたらす副産物である。
ゆえに、本報告では「非連続型幸福追求モデル(NDH:Non-Deterministic Happiness)」を提唱し、次のような社会設計への応用を期待する:
- 一時的に意味不明な広場
- 会話の途中で終わる公式な掲示
- 用途不明の公共家具
これらは無駄ではなく、帰り道のようなものである。
8-5.終わりに
カオシドロが過ごした「昭和」は、もはや彼だけのものではない。
そこにいた誰か、そこに行ったことのある誰か、あるいはそこに行った気がしている誰かすべての中に、微かに残っている。
昭和は、もうどこにもない。
だが、まだどこにでもある。
そしてたぶん、明日も、駅前のベンチの陰あたりで、誰かが帰らずにいられなくなるだろう。
※このお話はフィクションです。