違法ではないが合法でもない活動群の爆発的増殖とその管理不能性
1.それ、アウトではないがセーフかといえばグレーです:現象の台頭
1.1 背景:未規定領域の人口増加
令和8年以降、都市部および準都市型農村地帯において急増しているのが、「非違法非合法活動群(NHLAs:Non-Harmful Legal Absence Activities)」と総称される一連の活動である。これらは、既存の法体系の枠組みにおいて明確に違法とは判断されないが、同時に「合法です」と断言するにも何とも言いがたい微細な活動群であり、その代表的事例としては以下のようなものが挙げられる。
- 駐車場に申請なしで“無料読書スペース”を設けているが、収益は発生していないため取り締まれない(誰が設置したか、どこに設置したか次第では黒)
- 謎の団体が「光合成を称える集会」と称して公共の緑地を毎朝4時間使用しているが、誰も迷惑とは感じていない(謎の団体の態度如何によるところがある。)
- 移動式たこ焼き屋が、湖面に浮かぶボートで営業を行っているが、法律上「水上にあるため店舗ではない」と判定される(監視の目が行き届かないだけでほぼ黒)
これらの活動は、警察、行政、地域住民のいずれからも「違法とまでは言えない」「でもなんとなく…」という反応を引き起こし、結果として“放置”と“様子見”の間に置かれる。
このような未規定領域での活動人口は、2024年時点で約3.6万人と推定されていたが、最新の調査では令和11年末の時点で約9.4万人へと急増しており、うち42%は“本人も自分の行為がどこに属するのかわからない”と回答している。
1.2 端境期社会における“制度の縫い目生活”
このような現象は、法社会学における「制度の縫い目(Institutional Seams)」という概念と密接に関係している。すなわち、明確に規制された領域と完全に自由な領域のあいだに存在する、不透明でふにゃふにゃした法的空白地帯に人々が定住し始めたのである。
近年の社会的風潮として、「過剰なルール化に対する倦怠」と「完全な自由の責任回避」が共存しており、そのはざまで「だいたい問題なさそうで、誰も止めてこない」領域が心理的にも魅力を帯びるようになった。これは、いわば**“半合法的居心地の良さ”**の拡大であり、制度がその存在を認知しないこと自体が自由の証とされる逆説的状況を生んでいる。
特に都市郊外においては、電柱と電柱の間に「公的でも私的でもない空間」が発生しており、ここに設置された仮設ブース(例:即興俳句朗読所、無認可スイーツ交換所など)は、行政書士からも「書類が一切発生しないため、対応できない」と評価されている。
1.3 明確にしないほうが平和、という社会心理
これらNHLAsが広く受容されている背景には、日本社会に特有の**“明言しないことへの好意的無関心”がある。たとえば、近隣住民が仮設グレー活動に対して「べつに困ってないし…」という態度を取る場合、それは黙認ではなく「確定させることで揉めるのがイヤ」**という高度な平和志向から来ている。
これは、昭和期の「見て見ぬふり文化」の再解釈ともいえる。かつては非倫理的な行動に対して発動していたこの構造が、現代では制度の境界に住む行動に対して適用されているため、倫理的非難もなく、行政的対応もなく、SNSでも話題にしづらいという“存在するけど語りにくい行為”として定着しつつある。
実際、調査によるとNHLAsの活動者のうち68.1%が「できれば見つからないほうが気が楽」と回答しており、これは従来の反社会的活動とは明らかに異なる、“干渉しないことが相互礼儀”という新しい社会的契約の芽生えを示唆している。
1.4 「何か変だけど違法じゃない」の連鎖
このような活動群は、初期段階ではユーモラスな微違和感をもって受け入れられていたが、急速な拡大に伴い、行政的・法的な対応困難性が顕著になっている。特に問題となっているのは、その活動が広まれば広まるほど、他の人々も似たようなことを始めるというコピー型拡張である。
例えば、首都圏で流行した「物を売らないフリーマーケット」は、「あげるけど条件はジャンケン」という形式で開催されていたため、商取引ではないと判断された。しかし、これを模倣した「条件はタップダンス」型、「条件はほめ言葉」型、「条件は“絶対もらわない”と3回言う」型などが次々と派生し、区役所の担当者が何の条件が売買行為に該当するかをめぐって、哲学的悩みに突入したケースもある。
こうした事例に共通するのは、「判断の明確さを意図的に崩す」ことにより、制度の適用そのものを回避するという知的サバイバル戦略である。言い換えれば、グレーであることを保ち続ける努力が、かつてないほど高い技術を伴う時代に突入しているのである。
1.5 小括:制度の真空に咲く花のようなもの
本章では、違法ではないが合法とも言い難い活動群が、いかにして社会の制度的“すき間”に根を張り、拡大していったかを概観した。そこに違法性はなく、合法性もなく、ただ「今はとりあえず誰も止めていない」という状態が広がっている。
これらのNHLAsは、制度が想定していなかった場所に咲く“法の真空花”のようなものであり、除去することも、水をやることも困難である。次章では、これらの活動が社会運営と行政制度にどのようなズレと混乱をもたらしているかを、現場の実例とともに詳述する。
2.ゆるい地雷と行政のステップ回避ダンス
2.1 「踏んでも爆発しないが、踏んだとバレる」案件の蔓延
近年の行政対応現場では、**「何かおかしいが違法ではない」**という事案が急増している。これらの事象は、爆発物で例えるならば、「起爆装置はないが、踏んだら写真を撮られるタイプの地雷」ともいえる。すなわち、摘発しても支持されず、放置しても責任が問われるという「注意を引きつけるが誰も得しない案件」である。
令和11年の地方自治体職員アンケート(総務省 地方対応ストレス調査)この記述はフィクションです。によれば、「違法とは言い切れないが、対処の必要性を感じた行動」に対応した職員のうち、82.4%が『できれば誰か他の課が先に気づいてほしかった』と回答している。
この現象は、行政的には「不干渉望型苦情回避傾向(Non-Interventionist Discomfort Aversion)」とされ、対処すべきものが増えているにも関わらず、**“見なかったことにするダンス”**が組織内で集団的に踊られるという問題が浮き彫りになっている。
2.2 “条例の向こう側”に広がるグレーの楽園
NHLAsが厄介であるのは、それが既存の法令・条例の適用範囲ギリギリを避ける設計思想で構築されている点にある。とりわけ多いのが、以下のような「ノータッチ設計型」行為である。
- “時間制限回避型”活動:公園でのテント設営を毎日6時間59分で撤収。条例で定める7時間超の連続占有を厳密に避けている。
- “名称回避型”活動:「マーケット」ではなく「物々称賛会」と名乗るイベント。販売も交換もしていないが、なぜか帰ると人々が満たされている。
- “動的無許可型”活動:常に徒歩移動し続けるポップアップカフェ。「店舗が存在しないため営業実体が特定不能」と判断され、担当課が5つに分裂した。
これらのケースでは、条例の文言を形式的に満たしていないため、「違反していないという前提で処理される」。ただし、職員側も“明らかにこれは法の精神に反している”と直感的に理解しているため、対応に踏み切れないジレンマが続く。
2.3 “暗黙的様子見”という行政機能の新フェーズ
こうした背景のもと、多くの自治体では、形式上は何もしていないが、非公式な監視・非明文化的報告・非着手的対話といった“中途半端な関与”が組織的に展開されている。これは、実際には何も取り締まっていないが、「いつでも動ける雰囲気」を維持するための、いわば行政版の空気読みである。
実際にX県北部某市では、「非正式現場状況把握員(Temporary Informal Grey Activity Observer:TIGAO)」という職が内部的に存在しており、その業務内容は「何かあったら報告してね」というものである。
だが、この“何か”が何であるかは定義されておらず、報告書の8割は「本日も特に動きなし。たこ焼きはおいしそうだった」というメモで占められている。
このような運用は、官僚制の一部において「観察的沈黙(Observational Silence)」という用語で美化され、組織の柔軟対応の一例として表彰される場合もあるが、実際には単なる放置のハイコンテクスト化に過ぎない。
2.4 法律相談窓口で生まれる“ゆるい悲鳴”
これらの活動が報告されるたび、最前線に立たされるのが地域の法律相談窓口である。
「これは違法ではないが問題ではあるのか?」という住民からの相談が寄せられた際、窓口担当者は次のような対応に追われる:
- 「現行法では取り締まりの対象外であるが、道徳的には…うーん……」
- 「自治体としては把握しているが、直接の介入は……あくまで民間の…あの…ですね」
- 「仮に仮処分申請を行う場合、どの条文に基づいて……いえ、失礼、現時点ではその必要はないです」
このような「何も違反していないのに何か問題がある気がする事象」を説明しようとする過程で、言葉がどんどん曖昧になり、語尾が消える法的曖昧語法が乱用される事態となっている。
令和10年度には、全国の法律相談員の間で「グレー語尾疲労症候群(Grey-Terminal Clause Fatigue)」が多発し、診療報酬請求に係る事務手続きの一部にも支障が出たという報告がある。
2.5 小括:「なるべく踏まずに、ステップを刻む」
本章では、非違法非合法活動群が制度の端に触れながらも摘発されず、むしろ行政の対応自体が“様子見の美学”へと変質していく過程を示した。
行政は地雷を避けているのではない。「地雷かどうか判定してはいけない地形」をステップダンスのように移動しているのである。そのリズムは滑らかであり、無害であり、そして完全に無効でもある。
次章では、この構造がなぜ繰り返し出現するのか、法制度、社会心理、文化的背景などから要因を解体していく。
3.なぜ“何でもない”が爆発するのか:法の網目に住み着く文化的ノイズの定量化
3.1 序:誰も止めなかった理由が、いつの間にか免許になる
「違法ではないから止めなかった」は、本来消極的容認のはずである。
しかし、NHLAs(非違法非合法活動群)の領域においては、この“止めなかった”という記録なき事実が、黙認→認可→制度慣習へと進化する現象が観察されている。たとえば、最初は好奇の目で見られていた湖上たこ焼き屋が、1年後には地元情報誌に「名物屋台」として掲載され、さらに3年後には「湖上屋台営業エリア」として地図に描かれる。
これは単なる市民の鈍感化ではなく、制度の網目に微生物的に定着したノイズが、一定時間を超えて放置されると“自然物”と誤認されるという社会的錯覚の結果である。
以下、4つの視点から、この“なんとなく増えてなんとなく無視されているのに、いつの間にか定着している”現象の構造を明らかにしていく。
3.2 【制度的要因】:「白」「黒」しかない判定ロジックの限界
現行の多くの行政法体系は、「許可された行為」と「禁止された行為」の二項対立で構成されており、それ以外の行為については原則として「未定義」「想定外」として処理される。
この「行為分類の二進法構造」は処理効率には優れているが、NHLAsのような**“ゆるく行われているが害のない模倣可能行為”を分類するには適さない。とりわけ、「誰も困っていないので報告されないが、明らかに何かしている」ケースにおいては、“問題がないという事実が、制度的に把握されない”**という逆転的構造が発生する。
この現象は、近年行政学で提唱されている「ノンイベント型政策漏洩(Non-Event Policy Leakage)」の代表的症例であり、行政機関が“対応しなかった”事実そのものが記録されないことで、法の盲点が時間と共に公共性を獲得してしまうのである。
3.3 【社会心理的要因】:共感駆動型逸脱の拡散構造
NHLAsは、従来型の「違法行為」や「不正行為」とは異なり、**“なぜかちょっと良いことをしているようにも見える”**という性質を帯びている。たとえば、駐車場の読書スペースは「子どもが静かにしているから助かる」と親から感謝されることもあるし、光合成集会も「ゴミを出さない静かな人たち」として近隣から好感を持たれることが多い。
このような「道徳的に悪く見えない逸脱行為」は、社会心理学における共感駆動型逸脱(Empathic Deviance Propagation)に該当し、違反の事実が倫理的同情によって中和される傾向がある。
調査によると、「違法ではないけどちょっと変なことをしている人」を見たときの第一印象に対して、「なんか応援したくなった」と回答した者が36.9%に達している。これは、制度的逸脱が“社会的キャラクター”として昇華されてしまうことで、むしろ制度の側が厳格で無機質に見えるという逆効果を生み出す。
3.4 【時間構造的要因】:制度の“6年ラグ”と爆発的連鎖
法改正・条例新設・制度見直しは、通常、社会現象が一定の数値的異常や苦情件数を超えた段階で初めて検討される。つまり、制度的対応は現象より常に4〜6年遅れて到着するという構造的タイムラグを内包している。
この遅延がNHLAsにとっての最大の繁殖機会である。初年度に10件の活動が発生し、翌年には「問題ないなら真似していい」と判断した30件、さらに「それを批評する人を観察したい」という理由で発生する派生活動40件……という**増殖型逸脱模倣曲線(Derivative Deviance Curve)**が確認されている。
ある自治体では、初期に発生した“流し素人演劇”が話題となり、それをテーマにした即興小説読み聞かせ、リスペクト作品の即売会、読まれなかった作品の供養祭などが連鎖的に出現したが、これらすべてが**「営利性なし・騒音なし・公共性あり」であり、止める法的根拠が見つからなかった**。
3.5 【文化的要因】:曖昧さの称揚と“ややこしさ尊重主義”
日本文化には古来より「明示しない」「断定しない」「察する」ことが美徳とされる傾向がある。これが制度レベルにまで内面化されたとき、明文化されていない行為を排除しにくい社会的体質が生まれる。
NHLAsはその“曖昧であること”自体が魅力となり、明確な定義を与えないことで人々の解釈空間を広げ、文化的な遊びを発生させる。たとえば、「不特定多数に何かをあげているように見えるけど、何もあげてないです」と主張する“交換しないフリーマーケット”が開催され、それを見に来た人々が「何も起きてないのがすごい」と称賛し、写真を撮って帰っていく、という実態のない活動が地域文化化した例もある。
これは、**「何かやってるようで、何もしていないことが、何かを生む」**という、文化的空洞生成戦略と捉えることができ、制度とは異なる論理系で正当性を獲得してしまう。
3.6 小括:制度の“聞き取れない領域”に増殖するもの
以上のように、NHLAsの爆発的増殖は、単なる制度の未対応ではなく、制度の設計思想、社会的共感、制度運用のタイムラグ、文化的曖昧さへの寛容が複合的に絡み合った結果である。
特に重要なのは、これらの活動が「違法ではない」という形式だけでなく、**「社会的に何も悪く見えない」**という印象によって保護されている点であり、それが制度的手続きよりも早く、深く、日常生活に入り込んでいる。
次章では、こうした“制度の聞き取れない領域”に対して、行政・法制度・社会がどのような対策を講じようとし、それがまた別の混乱を招いた事例を検討していく。
4.対応策の迷走と形式的合法感の濫用
4.1 「合法とも違法とも言えない行為への適正な対応を求める通知」という名の無通知
令和11年7月、国土法制課より各自治体に向けて発行された文書「合法とも違法とも言えない行為への適正な対応を求める通知(通知第Q-23号)」この記述はフィクションです。は、まさにNHLAsを意識した初の指針と見なされた。しかしその内容は、「現場の判断に委ねることが望ましい」「適切な関係機関と協議のうえ柔軟な対応を検討せよ」といった高度な柔軟性により、すべての具体性を回避した内容で構成されていた。
さらに、末尾には「※本通知の内容についての明確な法的位置づけはありません」との注記があり、一部自治体ではこの通知を**「連絡ではない連絡(Un-Notice)」**と呼び、職員研修において「読んでも読まなくても同じ例」として教材化されている。
つまり、初の対策文書にして、存在感だけで内容のなさが極まり、NHLAs側にむしろ正当性を与える文脈証拠となったのである。
4.2 「周辺行為指導員」という謎職種の出現と逆プロモーション現象
一部の進取的自治体では、NHLAs対策として「周辺行為指導員(SEAO:Semi-Existence Activity Observer)」を試験導入。これは、日常的にグレーゾーン活動を巡回観察し、本人と非対立的に対話し、やんわりと“何かしらの線引き”を図る新設職である。
しかし、このSEAOは制服が非常に目立つ(※グレー地に“灰色”とだけ書かれた逆ハイビジネスジャケット)ため、グレーゾーン活動者たちの間で「来るとバズる」「逆に注目されて楽しい」と話題となり、
とくに光合成集会においては、彼らが近づいてくるたびに“太陽を直視して動かなくなるパフォーマンス”で歓迎されるという、いわば制度への過剰な迎合による無力化が起きた。
SEAO側からは、「人々の法的意識を高める機会になっている」との報告が提出されたが、その後の自治体調査では、活動件数が逆に1.7倍へと増加していたことが判明している。
4.3 SNS上で導入された「グレーっぽいですスタンプ」の誤用と拡散
SNS運営各社もNHLAsの拡散と混乱に対して独自の対策を講じ始めている。中でも注目を集めたのは、2025年に実装された「グレーっぽいですスタンプ(Grey Area Advisory Reaction)」である。
これは投稿に対して「明確な違法性はないが、なんか気になる」という意思表示をするための反応ボタンで、正義中毒型クレーム抑制のために設計された。
しかし、導入直後からユーザー間での誤用・乱用が拡大。
特に以下のような反応が多数報告された:
- 「朝食でピザ食べた」と投稿→グレーっぽいです×126
- 「今日はベンチで本読んでました」→グレーっぽいです×204(※駐車場読書スペースを想起した可能性)
- 「法律に関係なく自由に生きたい」→グレーっぽいです×512、いいね×3、通報×1件
このように、「実際には法と関係ないもの」が“グレー認定”される一方、明らかにグレーな投稿には逆にスタンプが付かないという感情型レコメンドバグが頻発した。
現在では、「グレーっぽいスタンプが多い=親しみやすい」という風潮すら一部に見られ、専門家の間ではこの機能は「ゆるい違法性の記念品化装置」と化しているとの批判もある。
4.4 曖昧な文言の行政語彙化と“未定禁止措置”
制度側の対応の最終段階として観察されているのが、「とりあえず禁止とは書かないが、何かは伝える」ための新しい行政語彙の創出である。
実際に複数の通知や条例案には以下のような言い回しが登場している:
- 「想定されうる一定範囲の行為について、様子を見る意思を表明する必要性があると考えられる」
- 「本来想定されていない行為ではあるが、今後の可能性を排除することはできないため、一定の検討を求める」
- 「現時点では制限されていないが、許可されているとも言えない行為群に属する可能性があるとされる範囲を、当面対象とする予定」
これらはいわゆる**「未定禁止措置」**として機能し、行政としての反応を示すが、何も禁止していないため法的拘束力はゼロ。
住民からは「結局やっていいのかダメなのかどっちなんだ」という問い合わせが殺到し、FAQが300項目を突破した自治体も存在する。
中でも人気の回答項目は「Q. 具体的に禁止されていない場合、具体的にどうすればいいですか?」「A. 可能な限りの判断をお願いします。」である。
4.5 小括:制度という名のつま先立ち
本章で確認したように、制度側がNHLAsに対して試みた対応──通知、指導員、SNS機能、行政語彙──は、いずれも“取り締まる気はあるけれど、確信がない”という中間姿勢を強化しただけであり、市民の側にはむしろ「やっていい気がする空気」だけが蓄積された。
結果として生まれたのは、明確な禁止もなく、強制的な許可もなく、ただ**「やっている人も、やめさせたい人も、制度も全部がつま先立ちしている社会」**である。
次章では、こうした曖昧さの拡大から見えてくる、社会の“合意とは何か”という根源的な問いと、我々がどこまでを「合法」と呼び、どこからを「何かヘン」と呼ぶのか、その構造的限界と希望を整理する。
5.あえて濡れた布で境界線をこする社会へ
5.1 何がセーフかを決めるのは、法ではなく、タイミングである
違法ではないが合法でもない──NHLAsが私たちに突きつけた問いは、単に「法律が追いついていない」という問題にとどまらない。
本質的に問われているのは、**「法が黙っている間に、人々の側が“合法っぽさ”を感じ始めるプロセス」**である。
湖上たこ焼き屋が名物になる瞬間。駐車場の読書スペースが学童支援と呼ばれ始める時点。光合成を称える集会が「環境意識の象徴」としてツイートされる瞬間。
これらは、法的正当性が確立されたわけではなく、ただ“止められなかった”という空白の時間の積み重ねによって、事実上の存在承認を獲得していった。
つまり、制度の静寂は、しばしば許容のジェスチャーとして誤読される。
これは恐るべきことであると同時に、制度という構築物が本来的に持っている**“ズレる力”**──境界を静かに後退させていく力の、自然な作用とも言える。
5.2 「ルールを守る」のではなく「にじみに抗しない」社会へ
近代的な法制度は、白と黒のあいだに線を引くことで秩序を保とうとしてきた。
だが現代社会における秩序の多くは、その線をわざと曖昧にし、時に滲ませ、共感や空気で補完することによって成立している。
この構造の中でNHLAsは、「この線を超えてはいけない」と言われていない線を、とても柔らかく、しかし確実にこすってくる存在である。
その様は、まるで濡れた布で境界線をにじませる行為に似ている。法的にはセーフ、倫理的にはなんとも言えず、制度的には未定義。その“にじみ”に多くの人が安心し、あるいは不安になり、結果として「何となくそれもありかな」という、合法未満の共感領域が拡張していく。
このとき我々は、「ルールを守るか破るか」ではなく、「にじみを扱う技術」を問われているのだ。
5.3 許されることより、「怒られなかったこと」が強くなる社会
かつては、「許可された行為」が人々の行動を規定していた。しかし現在の社会では、「怒られなかった」「なんとなく通った」「みんなやってるし黙認されてる」ことのほうが、強い社会的エネルギーを持つ。
これは、制度の権威が失われたということではない。むしろ制度が「完全には機能しないことが前提」になっている現実の中で、人々が制度の不完全さを前提に振る舞う方法論を編み出していることを意味する。
そしてこの「非制度的正当性(Non-Institutional Legitimacy)」は、しばしば制度よりも強く、迅速に拡散し、文化や慣習を塗り替える起爆剤となる。
たとえば、「条例に違反していない」という事実よりも、「あの人は怒られたことがない」という風評の方が、商店街における出店可否を左右するケースもある。
怒られなかった、という事実。それが境界線の代替品になる社会。
そこでは、法は静かに横にずれ、人々の行動は「だいたい大丈夫な気がする方向」に向かって連続的に流れていく。
5.4 濾過するための知性と、不完全さの肯定
この状況に対して、我々に必要なのは「違法かどうかを断定する力」ではない。
必要なのはむしろ、濾過する力である。
グレーゾーンのすべてを否定するのではなく、そこに混じる毒と栄養を見分ける力。制度の穴を利用した創造と、制度の穴を利用した悪意の違いを、明文化されていない指標で見極める判断力である。
たとえば、湖上たこ焼き屋の存在が水質汚染につながるのであれば、それは注意されるべきである。しかし、ただ「たこ焼きを焼いている場所が珍しい」という理由で摘発するならば、そこには制度の硬直しか残らない。
制度は完璧でなくてよい。むしろ、完璧ではない制度に適応する知性こそが、現代社会における公共性の新しいかたちなのではないか。
5.5 結語:にじみと共に生きる構えを
非違法非合法活動群の爆発的増殖は、単に法制度の未整備を表す現象ではない。
それは、社会がいかに「曖昧さ」を扱うか、「境界線に触れること」をどう評価するかという、より深い文化的態度の問題である。
これからの社会に必要なのは、「にじみの中で判断する構え」である。
濡れた布で境界線をこすりながら、「ここまではセーフ」「これはちょっとやりすぎ」を、一律ではなく文脈の中で擦り合わせる知的な遊び場を、我々は制度の外側に用意していかなければならない。
法律がすべてを規定しなくても、にじみの中で生きる人々が、意図を持ってそれを扱うならば、
きっとそこには新しい秩序の気配が現れるはずである。
※このお話はフィクションです。